報告書

平成19524

記録者:佐藤祐希

計画名:電子書籍プロジェクト

開催日:平成19524

メンバー:末廣一美(リーダー)、佐藤祐希、佐藤毅、砂田智彦、山田雄大()

議題:電子書籍プロジェクトの概要と方針の説明、今回の報告

内容:

(1)電子書籍プロジェクトの概要

 研究テーマ:

  ユビキタスネットワークにおける情報受け取りメディア選択を可能とする電子書籍技術に関する研究。

 研究目的:

  本件旧ではWebという形で広く普及した書物レイアウトをさらに拡張させることで、情報受け取り側がメディアを選択可能にすることの有効性を明らかにすることを目的とする(別紙「研究内容説明書」より抜粋)

(2) 今回の報告

 報告者:佐藤祐希

今回は大きく分けて4つの事柄「 1)ダイナブックとは何か、2)暫定ダイナブックとは何か、3)GUIとは何か、4)パロアルト研究所とは何か、叉その研究所に関係する有名人(アラン・ケイ等)の経歴及びどのような事を行って有名になったか。」について報告する。

 

1) ダイナブック (Dynabook)

アラン・ケイが提唱した理想のパーソナルコンピュータ(パソコン)である。

 ケイの構想したダイナブックとは、GUIを搭載したA4サイズ程度の片手で持てるような小型のコンピュータで、子供でも扱える低価格なものである。

 ダイナブックは、文字のほか映像、音声を持つ「本(book)」のような存在であり、それを扱った人間の思考能力を高める存在であるとした。

 ケイがXEROXのパロアルト研究所在籍時に「暫定ダイナブック」として開発したのが、Smalltalk GUIベースのオペレーティングシステムに用いて動作させていたAltoで、これを目にしたスティーブ・ジョブズLisa、そして Macintosh を開発するきっかけとなったとされる。

 ケイの論文の「ダイナミックパーソナルメディア(動的個人媒体)」を使う、「本」のようなもの。からDynabookと名前が付けられた。

 

2) 暫定ダイナブック

アラン・ケイが、自らが1960年代に構想した理想の個人向けコンピュータ「ダイナブック」の一部の機能を実装したコンピュータ環境を、1970年代に入って、当時の技術で実現可能な範囲で試作したもの。具体的には暫定ハードウェアとしての「Alto」と、暫定システム・ソフトウエアとしての「Smalltalk」の組み合わせがそれに当たる。製作はチャック・サッカー(Alto)、ダン・インガルス(Smalltalk)らにより行なわれた。

 

3) GUI

グラフィカルユーザインタフェース(Graphical User Interface, GUI)はコンピュータグラフィックスとポインティングデバイスを用いて、直感的な操作を提供するユーザインタフェース。 キャラクタユーザインタフェース (CUI) と対比して語られることが多い。

グラフィカルユーザインタフェースは、視認性、操作性に優れ、直感的な操作が可能なため、広く普及し、現在では主流のインタフェースになっている。

アラン・ケイにより、誰でも簡単に使えることを目指して作られた暫定ダイナブック環境の、当初は標準システム的な位置づけで開発されたSmalltalk-72は、Data General社のNovaから、約5?10倍の能力とビットマップディスプレイ、マウスを装備したAltoへと移植され、マシンパワーを得るとすぐにオーバーラップ可能なウインドウシステムの構築が試みられた。このマルチウインドウシステムを効率よく機能させるために後に考え出された BitBlt (ビットブリット) は、現在も、ちらつきのない画面描写のために使われるアルゴリズムとしてよく知られている。

1974年までには、後にMicrosoft Wordの前身と言われるようになるBravoを開発していた別グループとの情報交換を経てパロアルト研究所 (PARC) 初の(つまり世界初の)WYSIWYG (ウィジウィグ) エディタも実装される。70年代半ば過ぎにはマウスによる操作、メニューによる命令実行、オーバーラップマルチウインドウシステム、絵と文章の共存できるWYSIWYGのマルチフォントエディタ、アイコンによる機能やオブジェクトの簡易表現など、現在ごくふつうに見られるグラフィカルユーザインタフェースの主要な要素は固まっていた。Smalltalk-72の後継であるSmalltalk-76ではさらに洗練・整備され、それを1979年に見たSteve Jobsが策定中のLisaMacintoshの前身)の仕様決定に役立てた話は有名である。

 

4) パロアルト研究所

 パロアルト研究所 (Palo Alto Research Center : parc)は、アメリカ合衆国にある研究施設。 複写機大手の米ゼロックス(XEROX)社が1970年に、カリフォルニア州パロアルトに開設する。 アーキテクチャー・オブ・インフォーメーションの創出を目標とした。 コンピューターサイエンス方面での影響力が大きく、Smalltalkイーサネット、レーザープリンタ などの発明が行われた。デバイス領域では半導体レーザーや電子ペーパーの研究を行う。 開放的な気風であったといわれる。

 

 

 

パロアルト研究所に関連する有名人として以下の人々が挙げられる。

 

4-1) アラン・ケイ

【英】Alan Curtis Kay

アラン・ケイとは、米国の科学者である。1940年、マサチューセッツ州スプリングフィールドに生まれた。オブジェクト指向プログラミング言語「Smalltalk」の開発や、コンピューターはメディアを超えたメディアであるという「メタメディア」の概念を提唱したことなどで知られている。

1968年、理想的なコンピューターコンセプトとしての「Dynabook」構想を発表する。1972年にXerox社の パロアルト研究所に入る。パーソナルコンピューターの原型となる「ALTO」、オブジェクト指向プログラミング言語であるSmalltalkを開発した。

1981年にアタリ社技術担当副社長に就任、その後アップルコンピュータ社やウォルト・ディズニー社、ヒューレット・パッカード社の特別研究員(フェロー)を歴任した。

2001年には非営利団体であるビューポイントリサーチインスティテュートを設立し、代表として活動している。同時に、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)や京都大学、ウィスコンシン大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)などで教鞭を執っている。

 

4-2) ロバート・テイラー

【英】Robert W.Taylor

ロバート・テイラーとは、米国Xerox社パロアルト研究所(PARK)の創設者のひとりである。1932年生まれ。

大学では心理学を専攻していたが、1956年から米国航空宇宙局(NASA)に勤務することになった。1965年にはアイビン・サザランドの後任として、米国国防総省・高等研究計画局の情報処理技術部副部長に就任し、全米の情報処理技術の先端的研究者の発掘・支援を任された。初めに支援を行ったダグラス・エンゲルバートは、1968年に画期的なコンピュータモデル「NLS」を開発した。また1966年には、リックライダー発案したネットワーク構想をヒントに 世界初のパケット通信であるARPA-NET開発を手がけた。

時代はベトナム戦争に直面し、国防総省は次第に軍事色を強めつつあった。ベトナム戦争に反対していたテイラーは、1969年に同省を去った。

1970年、Xerox社から招かれ、同社のパロアルト研究所の創設に参画することになった。テイラーは、高等研究計画局時代に全米のほとんど全ての非営利コンピュータ研究活動に対して助成活動と通じて関わっていたため、また、その傍らで主要な研究者や若い研究者らどうしの交流を促す活動を行っていたため、優秀な研究者のほぼ全員と面識があった。そうして、テイラーは優に50人以上の優秀な研究者をパロアルト研究所に結集させることに成功した。

パロアルト研究所の役割は、コンピュータの歴史において決して見逃すことのできないほど大きい。グラフィカルユーザーインターフェースを採用したパソコンの原型となったALTOスティーブ・ジョブスを驚愕させ、Macintosh(さらにはWindows)へと受け継がれた。また、ロバート・エトカルフェの開発した情報通信技術は、後にイーサーネットとして全世界のネットワークの基幹となった。最初のオブジェクト指向言語smalltalkは、その後のオブジェクト指向プログラミング言語の原点となっている。こうした革新技術の開発は、個々の優秀な研究者の功績であるが、その礎にはテイラーによる研究開発環境の整備があったといえる。

 

 

 

 

4-3) ロバート・メトカーフ

【英】Robert M. Metcalfe

ロバート・エトカルフェとは、米国のコンピューター技術者である。1946年、ニューヨーク州ブルックリン生まれ。イーサネットの開発者として、また米国3Com社の設立者として知られている。

1964年、ロバート・エトカルフェはマサチューセッツ工科大学(MIT)に入学した。専攻は電気工学。1969年に同校を卒業した後、ハーバード大学の大学院に進学した。ちなみに、この時期MITMACプロジェクトに参加し、後のインターネットの礎となるARPAnet のパケット交換の研究に参加している。

1970年、ハーバード大学から応用数学の修士号を取得、1973年にはコンピュータ科学において博士号を取得している。その間1972年(ハーバードの博士課程在学中)から、エトカルフェはXerox社のパロ・アルト研究所(RARK)へ勤務している。同社では、後のパソコンの原型となる「ALTO」の研究開発が進められており、エトカルフェはそのネットワーク分野を担当していた。1973年、同僚のボッグスと共同でLAN上のパケット交換の仕組みを創案し、イーサーネットの原形を作成した。1976年に、二人は「イーサーネット:ローカル・コンピュータ・ネットワークにおける分散型パケット交換」題した論文によってイーサーネットを発表した。

1979年、Xerox社にApple社のスティーブ・ジョブスが見学に訪れて間もなく、エトカルフェはXerox社を去った。そしてカリフォルニア州サンタ・クララで3Com社を設立した。同社はXeroxDECIntel3社を提携させて商用イーサーネットの普及に努め、またたく間に成長した。

エトカルフェは1990年に3Comの経営者の座を退き、しばらく英国オックスフォード大学の客員教授を務めた後、米国でジャーナリストとしての活動をはじめた。1993年からは、コラムを寄稿していた雑誌社の親会社であるIDGInternational Data Group)社の副社長に就任している。

なお、1980年にはエトカルフェにグレース・マレー・ホッパー賞が授与されている。

 

4-3チャールズ・シモニー

【英】Charles Simonyi

チャールズ・シモニーとは、米国のプログラマーである。ハンガリー出身。Microsoft社の主要なソフトウェアであるWordExcelの開発を手がけたことで知られている。

1970年代、Xerox社パロアルト研究所に在籍していたシモニーは、同社のパソコン「Alto」用にWYSIWYG型のワープロソフトを開発している。1976年にはグループでのソフトウェア開発手法としてメタプログラマーの概念を提唱した。その後Microsoft社に引き抜かれ、MultiplanWordExcelの開発に携わり、多大な功績を残している。20年の勤続期間中、アプリケーション開発責任者やチーフ・アーキテクト(設計者代表)を務め、インテンショナル・プログラミングの研究に従事してきた。

Microsoft社を退いた後、シモニーはIntentional Softwareを創設し、活動を続けている。ちなみに、20074月に、チャールズ・シモニーは宇宙船「ソユーズ」に搭乗して世界で5人目の民間人宇宙旅行者となり、話題を呼んだ。

 

4-4) チャールズ・ゲシキ / ジョン・ワーノック

ジョン・ワーノック ( John Warnock ) は、プログラマーでアドビシステムズ社の共同設立者。1940年にアメリカ合衆国ユタ州で生まれた彼は、ユタ大学で、数学の学士号と修士号、コンピューターサイエンスの博士号、を取得した。卒業後、職をいくつか経験した後、1972年にアメリカ合衆国カリフォルニア州に移り住み、1978年にパロアルト研究所に入る。1982年に彼はチャールズ・ゲシキと共に、アドビシステムズ社を設立した。現在、アドビシステムズ社の会長兼最高経営責任者 ( CEO )

ページ記述言語インタープレス開発。PARCを離れてAdobeを設立

 

4-5) チャック・サッカー

Chuck Thacker、本名チャールズ・P・サッカー Charles P Thacker)は、コンピュータ・ハードウェアの開発エンジニア。Altoと呼ばれるワークステーションを共同開発した。

1973年、サッカーは、アラン・ケイ、ボブ・テイラー、バトラー・ランプソンと共に、現在のパーソナルコンピュータの原型ともいえるワークステーションAltoをゼロックスのパロアルト研究所 (PARC) において開発した。アラン・ケイが構想を立て、サッカーがハードウェアを設計し、ランプソンがOSを書き、テイラーがプロジェクトを率いた。

ケイはコンピュータのハードウェア、GUIに関して優れた構想を持っており、テイラーは指導力に優れていた。PARCの他のメンバーにはレーザープリンタを開発したゲイリー・スタークウェザーや世界初のGUIベースのワードプロセッサ・ソフトウエアを発明したチャールズ・シモニーもいた。

1984年、Xerox Alto Systemの開発をたたえ、ケイを除く3人が、米国計算機学会 (ACM) System Awardを受賞した。受賞理由は、「分散配置されたパーソナル・コンピュータ・システムが時分割システムよりも優れており、実用的であることをAltoの開発により示したこと」とされている。System Award賞は、1983年に設けられた賞であり、前年はUNIXが、翌年には世界初の表計算ソフトウェアであるVisiCalcが受賞している。

その後、サッカーは、ランプソンと共にマイクロソフトに加わり、タブレットPCの開発に関与した。同僚だったシモニーは既にMicrosoft Wordを開発していた。スタークウェザーも同社に勤務している。

2004年には、Altoの開発者であった他の3人と共に工学分野のノーベル賞とも呼ばれる全米技術アカデミー (NEA) のチャールズ・スターク・ドレイパー賞を受賞し、賞金50万ドルを受賞した。チャールズ・スタークは慣性航法装置の父とも呼ばれる人物である。

 

4-6) スティーブ・ジョブズ

スティーブ・ジョブズSteven Paul Jobs, 1955224 - ) はアメリカの企業家。スティーブ・ウォズニアック、マイク・マークラらと共に、商用パーソナルコンピュータ世界初めて成功を収めたApple, Inc.の共同設立者の一人。また、そのカリスマ性の高さから、発言や行動が常に注目を集め続ける人物である。

ファーストネームをスティーブンまたはステファン、ファミリーネームをジョブスとして表記されることもあるが、アップル日本法人公式サイトではスティーブ・ジョブズと表記している

 スティーブ・ウォズニアックと共に「Apple I」を開発・販売し、Apple社設立後には「Apple II」を発表。株式公開後には2億ドルもの巨額を手中にし、20代でフォーブスの長者番付に載った数少ない人物だった事から世間の注目を集める。その後、ゼロックスのAltoで使われるグラフィカルなユーザインターフェースやマウス等のデバイスにインスピレーションを受け、それまで反対していたジェフ・ラスキンらのプロジェクトに加わり、新たなコンピューター像を創造する。発表された「Macintosh」は当時のIBM製パソコンを凌駕する洗練された物で、再び時の人となる。しかし、本人の立ち居振舞いの為に役員達から職を解任される。後にNeXT Computerを設立し、1996年業績不振に陥っていたApple社にNeXTを売却する事で復帰、1997年には暫定CEOとなる。その後ライバルとされていたMicrosoftとの資本連携、iMaciPodの発売などによりApple社の業績を回復させた。2000年正式にCEOに就任、プレゼンテーションの素晴らしさ、ライバル企業の経営者をも惹き付ける人間的魅力で知られる。

暫定CEOに就任して以来、基本給与を年1ドルしか受け取っていないことで有名であり、このため「世界で最も給与の安いCEO」とも呼ばれている(但し、成功報酬を賞与として、現金換算すれば莫大な額となる自社株やストックオプション、自家用飛行機などを受け取った年もある)。また、2006年にピクサーをディズニーが買収したことにより、ディズニーの個人筆頭株主となり役員に就任している。

 

4-7) ビル・ゲイツ

【英】Bill Gates

ビル・ゲイツとは、パソコン用OSWindows」などで世界的に有名な米国のソフトウェアメーカーであるマイクロソフト社の創業者にしてチーフ・アーキテクト、現会長である。19551028日、ワシントン州シアトル生まれ。正式な名前はウィリアム・ヘンリー・ゲイツ3世(William Henry Gates 3d)で、一般的にはビル・ゲイツの通称で知られている。

19歳の時、ハーバード大学在学中にポール・アレンと共にマイクロソフト社を創業した。1980年代にIBM社によって開発されたパソコン向けにOSを開発する仕事を受託し、その成果としてMS-DOSMicrosoft Disk Operating System)が誕生した。その後発表された、Windowsは、OSとしては世界1位の市場占有率を誇る。アプリケーションソフトも多くが世界的ヒットを記録している。

マイクロソフト社は世界的なソフトウェア企業となり、20世紀において最も成功した企業のひとつに数えられるようになった。ビル・ゲイツは現在、個人資産世界一を誇る資産家であり、同時に慈善団体「ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団」のオーナーでもある(メリンダとは妻の名前である)。20053月には、英国女王エリザベス2世から「名誉ナイト」(KBE)の称号を授与された

 

 

 

参考サイト

Wiki

IT用語辞典